空のっぽと雲ひげ

サンドアートとつれづれ日記

語りの世界

 2009年の春先に「語りの世界」に寄稿したものがあったので、ついでにそれもここにアップしておきます。

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黒い馬の馬頭琴伝説

田中孝子  本会会員・北海道札幌市

 思えば、私が語りを始めたきっかけは馬頭琴伝説だった。ひょんなことから馬頭琴のコンサートに語り手としてかり出され、そのまま今日まで12年間、馬頭琴の横で馬頭琴伝説を語らせてもらっている。

 馬頭琴伝説といえば、日本では「スーホの白い馬」が有名だが、モンゴルには別のタイプの物語もある。実は白い馬の出てくる話は南モンゴル(中国内蒙古自治区)に伝わっているもので、北モンゴルモンゴル国)ではむしろ黒い馬の出てくる話の方がよく知られているそうだ。黒い馬の話に興味を持った私は、8年ほど前、資料を集めて再話し、語りのレパートリーに加えた。

あらすじ

 昔々モンゴルに歌の上手いナムジルという羊飼いの若者がいた。ある年、戦争で故郷から遠く離れた地へ赴いたナムジルは、美しい娘と出会い恋仲になる。やがて戦争が終わり故郷へ帰る時、ナムジルは娘に、自分には既に妻がいるので一緒に連れては帰れないと告白する。すると、娘は背中に翼の生えた黒い駿馬ジョノン・ハルをナムジルに託し、この馬で自分にまた会いに来て欲しいと言うのだった。こうして、ジョノン・ハルのおかげで妻と恋人の間を行ったり来たりしていたナムジルだったが、ある日のこと、うっかりジョノン・ハルを妻の目の前に晒してしまう。以前から夫の行動を訝しんでいた妻はすべてを悟り、怒りと嫉妬にかられ、大きな鋏でジョノン・ハルの翼を切り落とし死なせてしまう。悲しみに打ちひしがれたナムジルは、愛馬の骨や皮や毛を使って楽器を作った。これが馬頭琴である。(再話:たなかたかこ)

 さて、白い馬の馬頭琴伝説は、領主に愛馬を殺された少年がその死を悼み馬頭琴を作ったという、少年と馬の友情を軸にした善悪の構図のはっきりしたものであるのに対し、この黒い馬の馬頭琴伝説は、男女の愛憎を描いた極めて人間臭いものに思える。聞き手の反応は様々で、感動したと言う人もいれば眉をしかめる人もいて、語り手としてはスリリングな作品だ。

 黒い馬の話でイメージの明暗を分けるのは、ナムジルが妻の存在を告白する場面だろう。あるコンサートでは、「どうしても、あなたを一緒に連れて帰ることはできない。というのも、私には故郷に妻がいるのだ」というナムジルのセリフを言い終えた直後、客席から不意に「不倫…!?」という声が漏れた。確かに大半の人が、口には出さずとも「ええっ?」と思う瞬間だろう。殊に客席に女性が多い場合、物語はこの時点でかなりの共感を失なっているのかもしれない。

 しかしながら、語り手としては、この物語の道徳的価値観を超えた部分の面白さや感動を聞き手に伝えたいと思っている。語る部分をどう創造し、また語らない部分をどう想像してもらうか、この作品に向き合ってから取り組んだ課題は大きい。千回読み込んで、ようやく探り当てた登場人物たちの細やかな心の動きもある。

 ひとつの作品に関して語りの回数を重ねることは、地図(物語)を読み解く新しいアイテムを手に入れながら宝物(真実)を目指して旅するようなものだ。この不思議な魅力を持つ黒い馬の馬頭琴伝説の中で、私の旅はこれからもまだまだ続くだろう。